さやママが脳出血を起こした当時の話を詳しく知りたい!
何か日ごろから備えられることはある?
このような疑問にお答えします。
当記事を読めば、脳出血を発症した当時の様子を詳細に知ることができます。
それらを知れば、万が一家族が脳出血を起こしたときにどうすればよいかがわかりますよ。
脳出血を発症したらどうなるかを知りたい方はぜひ読んでみてください!
当記事は、以前に僕がアメブロで書いていた内容をまとめたものになります。生々しい描写もありますが、その点はご容赦ください。
【体験談】脳動静脈奇形(AVM)による脳出血発症から生還までのストーリー
それでは、妻が脳出血を起こして意識が戻るまでの過程を夫である僕目線で書いていきます。
少し長いので、読み切るまではお気に入りに登録しておいて、時間があるときにちょこちょこ読むのがおススメです。
当時は結婚する前で、妻とはつき合っている段階です。(お互い社会人)
僕は実家暮らしで、一人暮らしの妻の家によく泊まりに行っていました。
①イントロ
2018年6月15日。
この日は僕たち夫婦にとって、特別な日です。
そして、決して忘れられない1日となりました。
なぜならその日は、大切な妻が脳出血を起こし、生死の境を彷徨った日だったからです。
当時の僕たちは交際を始めてもうすぐ1年。
2018年6月25日がちょうど1年記念日だったので、その日をどんな1日にしようかと、2人ともワクワクして計画していたのでした。
その10日前が人生で忘れられない1日になるとは知らずに。
②いつもの日常
妻の家と僕の職場が近いということもあり、当時はよく妻の家に泊まりに行っていました。
妻の家から通勤するのがお決まりのパターンになっていたんです。
その日も、僕は彼女と一緒に楽しいひと時を過ごしていました。
しかし、その日の夜にある事件が起きてしまいます。
なんと寝る前に、カップル史上初の大喧嘩をしてしまうのです。
きっかけは些細なことでしたが、お互いに自分の主張を一歩も譲らず、気がつけば後戻りできないほどの言い合いに。
怒り狂う彼女をなんとかなだめようとするも、結果はあえなく失敗。
最終的には仲直りをせずに、就寝することになりました。
「明日はお互い仕事で朝も早いし、仲直り出来ないのは仕方ない。」
「きっと時間が解決してくれる。」
当時の僕はこんな浅はかなことを考えていました。
そして、いつの間にか眠りについていたのです。
しかし、夜中にふと物音で目を覚まします。
その音は、妻が家中を歩き回る音でした。
当時の彼女の家は1Kなので、寝る部屋意外にはトイレと脱衣所、お風呂場くらい。
それらの扉を「バタン!」と勢いよく開け閉めする音が、足音とともに何度も聞こえるのです。
目を覚ましたものの、明日の朝が早いこともあり、僕は寝たふりをし続けました。
しかし、どれだけ寝たふりを続けても、音が一向に止むことはなく、むしろどんどん大きくなっていくのです。
さすがに僕も我慢の限界がきて、つい言ってしまいました。
「言いたいことがあるんやったらハッキリ言ったら?」と。
その言葉を皮切りに、彼女からの猛反論が始まり、ケンカがスタート。
しかし、今回はちゃんとお互いに納得し、仲直りをすることができたんです。
これで安心して寝られると思い、ふと時計を見ると午前2時30分。
「明日は7時起きだから、4時間半は寝られるなぁ」と思いながら、再び目を閉じます。
寝る前に妻は、「頭が痛い・・・」と言いながら、市販薬のEVEを飲んでいました。
「そりゃ、あれだけ怒ったら頭も痛くなるだろうよ。」と思いながら眠りにつきました。
しかし、その30分後にもう一度僕は彼女に起こされることとなります。
③突然の嘔吐
寝付いたのもつかの間、僕は妻の突然の嘔吐により目を覚ますことになります。
事前に気持ち悪くなったのがわかったのか、妻は最初、寝ころんだうつ伏せの状態でゴミ箱に吐いていました。
僕が気がついたときにはすでにその状態だったので、「大丈夫、大丈夫。」と背中をさすります。
そして、少し波が落ち着いてきたタイミングで、嘔吐物を処理するための手袋やビニール袋を探しました。
しかし、家のどこに何があるのかをきちんと把握していなかったので、探すのに時間がかかってしまいます。
そうしているうちに、彼女の方を見ると、なんとゴミ箱の中に吐くことができず、一部を布団の上に吐いてしまっていました。
彼女のお腹は「ギュルギュル・・!」と、他人の僕にもわかるくらい大きな音を立てて苦しそうです。
そんな状況が少しの間続いたあと、ようやく妻は落ち着きを取り戻しました。
念のため「大丈夫?」と聞くと、「大丈夫。」と返事をしてくれたので、僕も少し安心して嘔吐物を片付けるための道具を近所のコンビニに買いに行きました。
そうして試行錯誤しながら、なんとかきれいな状態にし、再び時計を見ます。
時刻は午前4時半を過ぎていました。
彼女も落ち着いていたので、不慣れなことをやり切った自分に拍手をしつつ、僕はまた眠りにつきます。
しかし、またその数十分後にさやの声で起きました。
起き上がることはせず、何かを必死に訴えています。
内容が上手く聞き取れませんでしたが、何度かくり返し聞き、ようやくトイレに行きたいことがわかりました。
自分で行けるか聞いたところ、「行けない。」とジェスチャーで回答されたので、トイレまで担いで連れて行きました。
ふりかえると、この時点ですでにおかしいことはわかるのですが、当時の僕はよく眠れていなかったためか、その異常事態に気がつくことができませんでした。
そうして、トイレも無事に終わり、倒れこむように布団に潜り込みます。
もう外は明るく、カーテンの隙間から光が差し込んでいました。
そして、明け方6時ごろまたしても目を覚ますことになります。
妻が言葉にならない声でずっと何かを話し続けているんです。
おそらくこの時からすでに構音障害(脳出血の後遺症)が出て、ハッキリした言葉になっていないのですが、僕は寝ぼけていたのもあって、適当に返事をしていました。
夜中からずっと起きて寝ての繰り返しだったので、体力的に限界だったんです。
しばらくすると、彼女も静かになりました。
そして迎えた午前7時。彼女のスマホのアラームが鳴り響きますが、その音は彼女の手で止められることはありませんでした。
④救急搬送
いつもならアラームが鳴るとすぐに止めるはずの彼女の手が一向に動く気配がありません。
僕は寝不足も相まってしばらく動けない状態が続きました。
しかし、あまりにも音が鳴り続けるのでしびれを切らし、彼女のもとへ駆け寄ります。
「さやちゃん!・・・さやちゃん?さやちゃん!!!」
ゆすってみても目を閉じたまま反応がありません。
「え?どういうこと?体調不良なら寝たら治るんじゃないの??」と僕の頭は軽くパニック状態です。
パニックになりながらも、僕は自分の母親(元看護師)に電話をしました。情けない話ですが、本当にどうしていいかわからなかったんです。
すると、母はすぐに電話に出てくれ、事情を説明すると、「すぐに救急車を呼びなさい。」と即答。
慌てて119にかけ直し、救急車を呼びました。
電話口の向こうでは、症状や彼女の年齢などを聞かれましたが、機が動転していたこともあり、ほとんど正確に答えられませんでした。
なんとか救急車を手配し、電話を切ったとたんにようやく大事になったと気づき、僕は妻に泣きながらずっと謝っていました。
「ごめん。もっと早く救急車を呼べばよかった。本当にごめん、ごめん・・・」
彼女から返事はないものの、最後に「救急車を呼んだからもう大丈夫。」と伝えると、ゆっくりとうなずいたので、まだ意識はあるんだと思いました。
待っている間に何をしていいかわからなかったものの、とりあえずパジャマ姿の彼女を着替えさせようと思い、脱がせようとするとあることに気がつきます。
パジャマがずぶぬれになっている・・・
なんと失禁していたんです。
朝方なにか彼女が言っていたのはおそらくトイレに行きたかったのだと気づき、また後悔しました。
そうしているうちに救急隊員の方が来られたので、玄関の扉を開けます。(時間にして電話をしてから5分くらいでした。)
救急隊員の方が妻に向かって、「大丈夫ですか?」と声をかけます。
しかし、彼女は何も反応しません。
そのあとも、何か別の質問をいくつかしましたが、やっぱり反応がないので、「いったん搬送します。」と言われ、救急隊員の方が3人がかりで彼女をタンカーへ乗せ、マンションを後にしました。
僕は終始落ち着きがなかったものの、救急隊員の方がとても落ち着いていたので、言われるがまま彼女と一緒に救急車に乗り込みます。
救急車の中で、僕は自分の職場へ連絡し、とりあえず遅刻することを報告。
彼女は口には酸素マスクが当てられ、手や指先には見たこともない機械が取り付けられ、本当に医療ドラマのような光景でした。
「きっと病院に着けば、すぐに意識が戻るはず。」
なぜかそんなことを思いながら、救急車は病院に到着しました。
⑤病院へ到着
病院に着き、救急車のドアが開くと、白衣を着た医者らしき人や防護服を着た別の救急隊の人、ナース服を着た看護師さんが数人待ち構えていました。
まさしくドラマでみるような光景そのまんまです。
すぐに妻は別のタンカーに乗せられ、処置室に移動していきました。
待っている間に待合室にて、彼女の個人情報をわかる範囲で書き、あとはひたすら待つこととなりました。
早朝ということもあり、待合室にはほかに誰もおらず、ただただ心細かったです。
少しうろうろしようかと席を立ったところ、処置室の扉が勢いよく開き、タンカーに乗った彼女が別の場所へと移動していきます。
「何か進展があったのだろうか?これで助かるのかも?」と淡い期待を込めていました。
しばらく待っていると、運び込まれた時よりもさらに大量の器具と一緒に、彼女のタンカーは再度処置室へ入っていきました。
素人目から見ても明らかに重体でした。
僕はこの光景に耐え切れず、声を殺してその場で泣き崩れてしまいます。
「なんで昨日の時点でもっと早くに救急車を呼ばなかったんだろう。」
「なんで夜中でも両親に電話して様子がおかしいことを相談しなかったんだろう。」
「なんで話すスピードがゆっくりになっていた時点で、様子がおかしいと気がつかなかったんだろう。」
「救急車を呼ぶのが遅かったから、重症化したんじゃないか。」
と後悔の念が溢れてやまないのです。
そうしていると、その状況を見かねてか、ひとりの看護師さんが私に声をかけてくださいました。
僕はこのとき言われたことを忘れることはないでしょう。
「あなたは悪くないですよ。遅かれ早かれ起こっていたことですし、こうして通報できたのがよかった。」と。
その言葉のおかげで少し落ち着くことができました。
そうして、1時間くらい経った後、担当医師である初老の先生が処置室の扉をがらりと開け、今の状況を簡潔に説明してくださいました。
「詳しくは言えないけど、小脳が出血しているのでこれから手術をします。」
そう一言だけ告げてまた処置室の中へと戻っていきました。
ここからさらに僕の長い長い一日は始まったのです。
⑥長時間の手術
手術をすると説明はされたものの、すぐに始まるわけではなく、始まるまでに時間がありました。
他県に住む妻の母親(今ではお義母さん)が病院に到着したのは、医師から手術を告げられた1時間ほど後です。
お義母さんとは何度か面識はあるものの、取り立てて話をするような間柄ではなかったので、ただじっと何も話さずに先生に呼ばれるのを座って待っていました。
そして、ようやく先生から手術の概要やリスクについての説明を受け、山のような手術に関する同意書に署名・押印をする作業をすることになるのです。
本来は家族しか聞けない説明でありましたが、お義母さんは僕が聞いてもいいように取り計らってくれ、一緒に聞くことが出来ました。
先生からの話は以下です。
- 脳出血が起こったのは小脳という部位
- 現在は出血が原因で水頭症(頭に水がたまる状態)になっている
- 命の危険があるため、早急に手術が必要
その後は、手術で生じる可能性のあるリスクについて説明され、お義母さんは輸血に関する同意書などのたくさんの書類にひたすらサインをしていました。
僕もこの時点で職場へ欠勤する旨を連絡し、同時に自分の母親にも連絡。
母は「絶対大丈夫!」と力強く励ましてくれました。本当に感謝しかありません。
電話を終えると、先生から手術前に妻と会ってもいいと言われたので、お義母さんと一緒に処置室へ向かいます。
そこには彼女の変わり果てた姿が。
身体中にいろいろな器具やチューブが取り付けられ、心電図のようなものが数字とともに波形で映し出されていました。
もちろん彼女も意識はなく、目を閉じて眠っています。
お義母さんは娘の変わり果てた姿に動じることはなく、ひたすらそばに居て手を握っていました。
どんな心境だったかと思うと計り知れません。
僕も反対の手を握り返し、「絶対大丈夫・・・」と何度も話しかけました。
そして、いよいよ手を離し、手術室へ向かう時がやってきました。
温かい彼女の手。
この手を離すともう二度と会うことはできなくなるかもしれない。
そう思いつつも、僕は自分でも「絶対に大丈夫。」と祈るような気持ちで彼女を手術室へ送りだしました。
手術を待っている間は待合室で待つことになります。
手術時間は5時間を予定しており、それまでは落ち着かない気持ちが続きました。
朝から何も食べておらず、待っている間に何か食べようかと適当にコンビニでおにぎりを買いましたが、まったく喉を通りません。
そうしているうちに、段々と妻の父(義理のお義父さん)や親せきが続々と集まってきて、ただひたすらに手術が終わるのをみんなで待ちました。
待合室の中には、何か灰色の鉛のような重く暗い雰囲気に包まれていました。
特に会話もないまま、ただただ時間だけが過ぎていきます。
どのくらい時間が経ったでしょうか。みながあることに気がつきます。
それは手術の予定時間である5時間をとうに過ぎていたのです。
問題なく、手術は手筈通り進んでいるんだろうか?
それとも、予期しないことが起こっていて手術時間が伸びるているのか?
などと、考えても仕方のないことが心の中でぽつりぽつりと浮かんでは消え、また浮かんだりと繰り返しでした。
もう本当にとにかく長かったんです。
途中でお義父さんはしびれを切らし、状況の確認に行くほどでした。
しかし、手術がまだ終わっていないということしかわからない状況です。
みなの不安や緊張、疲労が限界が近づきそうになる中、ようやく待合室へ担当の先生が現れました。
「手術は無事に成功しました。今のところ、命に別状はありません。」
ようやく終わりのないトンネルを抜けて、光が差したような気持ちです。
少し場には和やかな雰囲気が生まれました。
手術は予定時間の2時間半をオーバーし、7時間半もの時が経っていました。
妻はようやく生を掴み取ったのです。
時間も夜の20時を過ぎていたので、面会などはせず、一旦は解散となりました。
僕は朝からずっと病院にいたので、半ズボンに半袖シャツ1枚のネマキ姿。靴下は履かずにスニーカーを直接履いている状態でした。
6月の初めごろの肌寒さを感じつつ、僕は家に帰ると同時に、死んだように眠りにつきました。
長い長い1日がようやく終わったのです。
その次の日に、僕はICUへ行き、妻と面会をするのですが、そこで驚くべきことがありました。
⑦ICUでの面会
手術が終わった次の日、僕は一度、妻の家へ行き、最低限の掃除をすませて、再び病院へ向かいました。
偶然にもお義父さんと同じタイミングで面会をすることになり、2人で妻のいるICUへ行きます。
そして、僕は彼女との面会を果たしました。
たった1日しか経っていないのに、もうずいぶんと久しぶりのような感覚です。
目を閉じたまま眠っている彼女の頭には2本の管が通され、白いネットのような帽子をかぶっています。
顔のいたるところにはガーゼが貼ってありました。
ベッドのそばには相変わらず、彼女の心拍や血圧(?)を伝える波形や数字を表示する機械もあります。
笑顔で迎えてくださった担当の看護師さんが「今は眠っています。」と教えてくださいました。
一見すると耐えがたく痛々しい姿かもしれません。
これから先どうなっていくのか・・・
先行きはいまだ不透明で、目をつぶってしまえば、真っ暗になって光を失ってしまうかもしれません。
でも、僕が彼女を見た最初の気持ちはこうでした。
「生きていてくれてありがとう。」
それ以上先のことは考えられません。
お義父さんも同じ気持ちだったのか、近くにある椅子に腰かけて、じっと彼女の顔を見ていました。
先生の話では、このまま様子を見つつ、2日後には薬で刺激して起こしてみるとのこと。(ちょうど2日後は月曜日でした。)
だから、この日は顔を見るだけとなります。
僕は彼女の近くに駆け寄り、「これからも一緒にいるからね。安心してね。」と耳元で伝えました。
すると驚いたことに、彼女は意識がないにもかかわらず、僕の声に反応して手を握ろうとしたり、顔を触ろうとしたりするのです。
何か言葉にならない言葉を発しながら。
看護師さんは、「あら、珍しいですね。どんなことをしても起きないのに。」と言っていました。
意識はないながらも、僕に返事をしてくれていたのかもしれません。
そうして少し過ごした後、お義父さんと病院を後にしました。
帰り道にはいろいろなことを考えます。
後遺症のこと、これからの生活のこと、仕事のこと・・・
考えることはたくさんありましたが、僕は少しだけ安心した気持ちで家に帰りました。
そして、そこからさらに3日後に彼女と本当の意味で再会することになるのです。
⑧目覚めと再会
妻と本当の意味で再開を果たしたのはICUでの面会から3日後でした。
その日は仕事が休みだったので、お昼から妻のいる病院へ。
僕の母もとても心配していたので、一緒にお見舞いに行くことになりました。
行く途中で先に面会に行っているお義母さんからこんなラインが来ています。
「凄く逢いたがっています。」
前日には無事に意識を取り戻したことは聞いていたので、一刻も早く会いたい気持ちでいっぱいでした。
足早に彼女のいる病室へ向かい、がらりと引き戸を開けます。
扉を開けた先には、ベッドで横たわる妻の姿がありました。
相変わらず、頭には管が刺さったままです。
ICUのときとは違い、目は完全には開いてはいないものの、確かにこちらを見ているようでした。
僕は彼女への第一声は「ごめんなさい。」と決めていました。
だって、こんな状況にしてしまったのは僕自身のせいだと思っていたからです。
ケンカをしたあの日、出血をさせるほど怒らせなければこんなことにはならなかったんじゃないか。
僕が彼女からいろいろなものを奪ってしまった。 当時の僕はそんなことを思っていました。
でも、妻と目が合った瞬間に口をついて出た一言。
それは、「さやちゃん。…よかった。」でした。
長い道のりでしたが、発症してから実に5日ぶりの再会を果たしたのです。
まず、妻は僕のことはしっかりと覚えていました。
脳出血だったので、記憶障害の可能性も心配しましたが、ひとまずそういったことはなさそうです。
どんな話をしたのかはあまり覚えていませんが、これだけははっきりと覚えていることがあります。
それは、彼女の言っている言葉がわからないという事実です。
何かを訴えてはいるんですが、何を言っているのかが聞き取れませんでした。
何度も何度も聞き直し、それでようやくわかったのが2割ほど。
話す内容も長い文章でもなく、単語なのに・・・
なんで彼女がこんな悲しい目に遭っているんだろうとやるせない気持ちになったのを覚えています。
でも、ひとつだけはっきりと言えることがあります。
それは、生きてさえいてくれたら何度だってやり直せるということです。
実際に、このあと妻はリハビリを毎日がんばって、ほとんど以前の生活と変わらないくらいにまで快復しました。
当時は彼氏と彼女という関係でしたが、この出来事を機に入籍して、僕たちはしあわせに暮らしています。
今ではふたりとも脳出血に感謝しています。
これはきっと、僕たちふたりを結び付けるために起こった出来事なんだと思いますね。
妻の脳出血から学んだ教訓3つ
最後に、今回の出来事を通して学んだ教訓を3つご紹介します。
- 少しでも異変を感じたらすぐに救急車を呼ぶ
- パートナーの持病や障害の内容を把握しておく
- お互いのスマホのロック解除ナンバーを共有しておく
①少しでも異変を感じたらすぐに救急車を呼ぶ
一つ目は、「少しでも異変を感じたらすぐに救急車を呼ぶ」ことです。
ポイントは、明らかに様子がおかしいではなくて、少しでも異変を感じたらというところですね。
脳出血の症状は一度起こったらこうなると決まっている訳ではありません。
でも、
- 嘔吐が止まらない
- 話すスピードがゆっくりになる
など、この時点でもっと早くに呼べばよかったと今では思います。
別に何もなければそれはそれでいいんです。
何かあってからでは遅いので、「何もないのに救急車呼んですいません。何もなくてよかった!」と思えることが大切ですね。
②パートナーの持病や障害の内容を把握しておく
二つ目は、「パートナーの持病や障害の内容を把握しておく」ことです。
僕の場合だと、妻の脳性麻痺のことをちゃんとわかっていなかったので、結果的に通報が遅れました。
パートナーがどんな持病や障害を持っていて、どんな症状があるのかはきちんと把握しておきましょう。
言葉がゆっくりだったのも、当時は「脳性麻痺の症状なのかな?」と思っていました。「脳性麻痺」と一口に言っても色々な症状があるので、ちゃんと事前に調べておけばよかったです・・・
③お互いのスマホのロック解除ナンバーを共有しておく
三つめは、「お互いのスマホのロック解除ナンバーを共有しておく」ことです。
ぶっちゃけ賛否はあると思います。
実は本編には書いていませんが、妻が搬送され、手術をされている間、妻のスマホにいろんなところから連絡が来て大変でした。
たまたまタイミングが合えば電話には出られるものの、ロック解除しなければラインには返信できないし、予定のキャンセル連絡もこちらからはできません。
そういった経験から、わがやではお互いのスマホの画面ロック解除ナンバーは共有しています。
もちろんプライベートな内容を勝手に見たりはしません。あくまで緊急時のために知っているってだけですね。
まとめ:脳出血はだれでも起こるかもしれない!日ごろから備えをしよう
今回は、脳出血を起こした当時の様子をくわしく紹介しました。
この出来事を通じて得られた教訓は以下です。
- 少しでも異変を感じたらすぐに救急車を呼ぶ
- パートナーの持病や障害の内容を把握しておく
- お互いのスマホのロック解除ナンバーを共有しておく
脳出血は決して他人ごとではなく、起こる可能性がないとは言い切れません。
日ごろから後悔のないように過ごせるといいですね。
それでは今回は以上になります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。